其の昔、米沢藩の塩問屋をしており、その名残を偲んで作られた「塩小倉」。雪深い里の味、ほのぼのとした塩の味、十印の塩小倉をご賞味くださいませ。

 

 




 宿場問屋とはその宿場の有力者で資力を持つものでなければできないことであり、宿場問屋をつとめた有力者は伊達時代の在郷家臣が土着帰農して土豪的在地勢力となったものが多いといわれております。
  この金子十三郎も上杉氏入部以前から上小松村にいた豪農でありおそらく伊達時代の在郷家臣であったものであろうと思われます。
 宿駅は藩主によって軍事、経済の面から設置された機関でしたので商用物資も輸送したが公用物資人馬の遞送を第一義的任務とされておりました。その中心的なはたらきをするのがこの問屋であり伝馬をそろえ人足を徴発し物資の受払い、輸送計画と実施、役銭手数料の取立て等宿駅の一切の業務を行っていたのです。このためには肝煎同様の人望がなければならずみずからの営利をはかるは勿論であるがそれだけの資力がなければならなかったようです。
 金子十三郎の公的な地位は「上杉家在郷馬上」に格附けされ「七人扶持町医師並」の待遇を得ておりました。あとに十人扶持を与えられておりますが、それは米沢藩の専売品、米の請払い、――臘、青苧や米の輸送、売りさばきなど――桑の植栽を藩に進言して殖産興業に尽力し、最上川舟運に小鵜飼舟採用をすすめて交通運輸に尽力し、あるいは江戸藩邸焼失の安永元年に一三〇〇貫文(二三七両)の献金をおこなった等、米沢藩の経済振興に大きな貢献をしたことによります。


 




 明治になって塩が専売となったため、十印は現在の菓子屋に転業することとなりました。
 今の家業である菓子と先祖の塩問屋《塩と砂糖》一体という至難のテーマに取り組み、米沢藩の塩問屋をしておりました名残を偲んで、ようやく完成したのが「塩小倉」でございます。

 



 小松宿駅の問屋に金子十三郎がありました。その子孫が、現在の菓子舗十印十八代目であります。

 米沢藩時代の制度により、宿場問屋という藩主によって軍事、経済の面から設置された機関、宿駅の一切の業務を行っていたのが金子十三郎家でした。
 直江兼続や初代藩主上杉景勝が米沢城主として駆け抜けた時代、日本海の商港酒田から最上川を運んだ塩を山形で水揚げし、山間部にある現在の川西町まで運び、塩問屋を営んでおりました。
 九代目藩主上杉鷹山の頃にはイサバ問屋となるのですが、一般には塩問屋として知られております。


 

 



 金子十三郎家はイサバ問屋であり、塩の問屋でもありました。一般には塩問屋として知られ、同家の書上げた由緒によると宝永年間(1704〜1710年)にイサバ問屋になったと書いてあります。
 元禄11年(1698年)の最上街道の宿場大橋村(赤湯南方)の輸送記録に「塩 小松へ二十九駄 駄賃四貫四百四拾七文」という文章が残っております(藩制成立史)。酒田から最上川を運んだ塩を山形で水揚げして陸路大橋村まで運び、ここから小松の塩問屋に廻送したのでしょう。この小松の塩問屋が金子十三郎家であり宝永の前、元禄の頃あるいはそのもっと前から塩商人であったと思われます。